中津川市の代表的コア史跡である阿寺城へ行ってきました。
実は何年も前からずっと行ってみたかった場所。
岐阜の山城を語る上でも外せない場所のひとつです。
「岐阜の山城ベスト50」のような本にも必ず載ってる主要な城址。
ざっくりいうと織田信長の時代には存在し、その頃の戦いで落城したお城です。
後の苗木藩主にも繋がる苗木城城主も住んでいました。
(恵那市飯羽間城の主が→阿寺城→苗木城と移り住み、彼の息子が阿寺城最後の城主)
こちらは余湖くんのホームページに載っている城址のイラスト。
稜線を利用して区画整備し、背後を堀切という掘削で防御力を高めているのが阿寺城。
先ずは遠くから。
中津川市インターから根の上高原方面へ向かう手賀野地域が登り口。
照寿庵さん辺りからその輪郭が見えます。
左手にある稜線上にお城がありました。
入口はこちらから。
民家の左手にある細い道を進みます。
案外迷うのがこの入口。
何も知らないとただの民家の脇道。
城址中心部は現在御嶽神社となっているので、近隣住民の視線が気になったら「この先の御嶽神社へ行きたくて…」といえば大体分かっていただけます。
(ちなみにこういうコアな史跡はコアになるほど周りから見たら「なんでこんな場所に?」となるので必要に応じ事前準備やコミュニケーション力必須。僕は某所でイノシシ除けの電線を飛び越えてたことがある…)
まだ未確認ですが、年に1度その御嶽神社にて祭礼があるそうです。
道はきれいに整備されていて、入ってすぐにベンチと祠があります。
祠の文字は読めませんでした…。
道なりに進むとダムがあり、登って↓の鉄板を渡ります。
結構水面スレスレなので梅雨時や雨上がりだと怖いかもしれない。
ここまできたらもうひと踏ん張り。
阿寺城を調べると必ず出てくる言葉が「沢を渡る」
それがこれ。
未踏段階では結構不安を煽りますが、案外浅い。
御嶽神社を示す看板もあります。
大きな石もあるし、3歩で渡れる。
ただしこの先は急登なので落ちるの厳禁。
ぐしょぐしょの靴では色々とつらい。
渡ると本当に一気に急登となります。。
距離的には大したことないとはいえ、まあまあハード。
しかしここを頑張ればあとはお城の敷地内。
あとちょっと。
(ロープや黄色いテープで行く先も示されているとはいえ整備用の分岐もあります、ルート選びは慎重に)
そして念願の阿寺城入城!
復習的にもう一度余保くんのお城のページのイラストを。
下部の4番の右下から登ってきたところになります。
「コアな山城って何が楽しいの?」と言われることもありますが、個人的にはこの瞬間が一番楽しい。
山奥へ立ち入り立ち入り、急に建物の痕跡となる平面に出会うのは宝探しに感覚が似ている。
(歴史好きとしてはそれが立地や時代などを体感できる博物館のようなものであったりもします)
3番右下の石。
こう大きな石が通路を挟んでいる場合は門柱か何かの土台に利用されていた可能性もあります。
これが苗木城くらいの時期になると柱を固定するための窪みも生まれてくる。
3番上部の石たち。
何かに使われていたのかどうかは不明ですが、右奥には堀のような窪みもあり注目ポイントのひとつ。
ここでちょっと上の方にある平面に上がってみました。
本当に平面。
礎石のような痕跡はありませんが、空間的なものは体感できるのでこちらも必見。
恵那市の飯羽間城と比べるとここは隅々まで散策できるのが嬉しいところ。
(あちらは竹藪が強すぎるのもあるけど)
ようやく見えてくる中心部。
今は御嶽神社ともなっているので鳥居が建てられています。
中心部の御嶽神社。
当時はここにお城の本丸が建っていました。
枝切り作業中なのか、後ろには梯子もかけられてます。
阿寺城最後かつ最大のみどころが本丸背後の堀切。
尾根を横に掘って通路を断ち切る、地形を使った防御機構。
これが三重に掘られています。
結構深い。
これだけ厳重に守りを固めているということは、それだけ用心する何かがあったということです。
当時はこの後方から岩村に抜けて行く道もあったそうで、お城の背中にも当たるので用心に用心を重ねたのかもしれません。
(2枚目は深さの目安に自分のウィンドブレーカーをかけてます)
更に稜線を登ることもできますが、最終的には車道に出ました。
この稜線が当時の岩村へ続く街道だったのか整備用の道なのかは不明です。
先日アップした猿ガ城のことを考えてもどちらとも取れるため、正確なところは分かりません…。
入口となる手賀野地域に詳しい方がいるそうなので、機会を作って訪ねてみたいと思いました。